デニム・ブルーママン23の5

 私は、多重人としての容子を見て、不安な要素に駆られてしまいますが、この子なり、あの事件から、別人になりたい…なれはしまいか?はあったと思います。純心幼稚園の年中さんの時、あの事件を起こし、容子は、幼くして、加害の立場になり、人柄について、深い考慮を煮詰めて行ったのだとしたら?人柄は、上着に値する?それとも、下着?いや、全くの裸体の奥に存在してある?容子はまだ幼く、自分の、危うい立場から、一刻も速く離脱したい考えは、すこぶる旺盛だったのでは?矢上に転居してから、私は、男の子として育てました。それが、今の容子の骨子に値します。洋介と呼んだのです。

デニム・ブルーママン23の4

 誰にぶつけようもない怒りに似たものが私の中に燻っていて、私の怒りをさらに助長させるのが夫の言動でした。私たちはいわば戦火の生き残り、それなのに、全く緊張感は見られず、それは教員の世界が公務員に近いことが起因していたと私は分析していました。話すことは、常に、歴史的な人物や、偉人について。こんな父親なら、いずれ、子供からは見放されるは、私には予測出来ました。なぜなら、その子は世の中の何物かになろうとしていたからです。しかし、肝心な父親は、どこまでも定番です。楽な世の中のお決まりのコ―スを挙げ、我が領地に子供を引き入れようと画策します。しかし、何物かになりたい人物には、手練手管は必要ない。私は夫を通して、容子に、あらゆる場面を見せることにしました。

デニム・ブル―ママン23の3

 封建時代と現代の間には、仕切りが、あり、その僅かな隙を行き来出来る器用さが、私の周りの女性たち全員にはありました。そうして観察して行くと、私にはまるでなかったコミュニケーション能力です。みんなが持ってる和の精神がまるで乏しい。その時一時的に、その人を好感しても、ずっと付き合って行くとなると、苦手意識がどんどん募ってくる。家族なら、一生の相手になる。それをきちんと踏まえていたわけではない。しかし、わが子を見たい気持ちは、ありました。わが娘、わが息子、生まれて来たら、歓迎したい気持ちは人並みにあったのです。

デニム・ブルーママン23の2

 堅苦しいセカイの裏には軍人の家庭があり、兄、姉を中心に父が留守の間は明るく回っていました。その家族が完全に消滅したことで私の精神は、アンニュイに差し押さえられていた。なぜ、自分が、好きになってもいないのに、結婚を?深く問い詰める自分の頭の中は混乱していました。結婚はしかし、大好きな人と暮らす演舞場でしょうか?家庭とは……まだ26歳の私。まだまだ未熟でした。

デニム・ブルーママン☆第23章☆

 わたしたちが、お見合いを兼ねて矢上普賢岳に登ったのが、1955年の今日。ずっと4月24日との期日は変わりませんから、あれから70年の歳月が流れたと思うと感無量です。矢上普賢岳は霊力が半端ない山です。それは登ってみないと解らない山が持つ引力だと思うのです。

デニム・ブルーママン22の21

 これほどの難産になるとは…私は女性の凄さをみずから体験します。容子と言う名前は私の教え子から頂きました。なんでも、受容しそこからまた新しいものを発見出来る娘になって欲しい。才能より私が重んじたのは世の中で通用出来る頭、そして、気配りです。しかし、私が対人関係で無口不器用だったように、やはり、遺伝子は嘘を付きません。あの子は、子宮の中で世の中という、難儀な場所には、出て行きたくはないを強く主張したようです。それは子宮の中で永遠に眠りたいと言うあの子の希望でしたが、却下されたのです。夫は住吉神社に再三再四、参り、祈りました。どうか、どうか、どうか、無事でありますように……

デニム・ブルーママン22の20

 今日は私と彼が籍を入れた日です。ちょうど、容子が生まれる3ヶ月前のこと…慌ただしく籍を入れたようで、実は、新居に当選した暁に入れたいと夫が方針を決めたのです。その3ヶ月の間、私は、出産という恐ろしいものを想像し、格闘していました。あんなに大きな頭が出て来る自体、奇跡。物理的に無理だと怖がる自分と格闘していたのです。同じように出産を迎える姉とは連絡を取り合いたくも、日々の煩雑に紛れてしまい、お互いが置かれた立場もあって、中々、交流はままならない。今ならスマホひとつでバスが今どこを走るかも、出てきます。1停前とか…しかし、佐世保にいる姉は、介護と格闘しながら、出産を迎えていましたから、専業主婦ではあっても、私より大変だったかもしれません。私、姉、そして妹の3人姉妹はようやく、全員が、夫婦という鞘に収まり一家を伴侶と維持して行く生活に突入したのです。こんな私が今、回想するのは、母の死がなかったなら、結婚には踏み切れなかった事実です。そういう意味では、母が背中を押してくれたんだと思っています。