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自分の中で理想とする女性像は、思いっきり背伸びをすれば母でした。しかし、それを目指せ…は無理なことは分かっていました。母は母なりに軍国の世を生きて、四人の子供たちを大人にし終えた。それだけで、充分役目は果たしていると、私は解釈しました。そんなに、時代が横転する機会には普通は遭遇はしません。私は15歳で敗戦を体験し、ミチは13歳で三菱の兵器工場で被爆したのです。ミチは、原爆投下と対峙をしながら、防空壕で一命をとりとめ、そのとき、私達は鹿児島に疎開していたのです。日本は少しずつ、良い方向に動きを変えて行くべく、戦争の遺した爪痕と向き合う日々でした。ミチは、私には、肝心なことを言わないまま、普賢山(ふげんさん)祭りに一回来て欲しい、自分の8歳上の兄に会って欲しい…を打ち明けて来るのです。

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まだふたりとも、若い。私は25歳でミチは二歳下。それなのに、ミチはかなり焦っているように見えました。お互いの家庭の話に入るには、かなり、打ち解けないと私は、無理。このお茶の教室も、母から強く勧められて、来ていたくらい、出不精の私でした。小学校から近いことで来ていたし、ミチも近隣の公立幼稚園で保育士をしていました。ミチは子供が大好きな感じはありました。しかし、それだけに、とどまらない、歌詠みの気質があることを、おいおい知って行くのです。私もミチも、全くお互いに違う…との直感は当たっていたのです。私は創作分野に憧れは抱くものの、全く、自信は持てなかった。ただ、絵画は少しだけ鹿児島師範学校時代に教えを受けたことはありました。

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私はハンサムで都会派タイプの長身の男性が憧れでしたが、ミチは、男性の話や結婚の話は全くしません。お互い名前は同じミチで私にはミチ子で子が付くだけ。まるで運命の出会いのように、強く衝動を共に味わうのですが、予感としてあったのは、私達は全く違う…そのことと、ミチの心の中での葛藤でした。蔓が絡まるようにミチは将来に強い恐れを抱いているように見えました。その当時を、振り返って見てみましょう。1954年の日本…まだ戦後9年しか経過はしていません。戦争の爪痕とみんなが対峙をしていました。ミチは私の年齢より二歳下で、すぐに打ち解けそうで、なかなか本心を明かさない。お茶の修業にしても、完璧を視野に入れていて、意識の高さは半端ないものがありました。難攻不落に見えて最初はこちらが緊張したくらいです。

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雪を撮影したはずが、違うものが写るように、人生は思うようには行きません。私は、早く、結婚し、家庭を、持ちたいとは、全く考えてなかった。だから、仕事に打ち込んでいた?それも、違うのです。母が亡くなり、私は天涯孤独とはこれを指すのか?を嫌と言う程味わいました。他の姉妹や兄は温かい家庭を持っていたからです。生きる意欲自体を失うものの、新しい希望を見出すのです。お茶の教室で出会ったミチです。私の二歳下でした。(このコーナーは毎週金曜日のみ出稿します)

みちはミチだった…

 叔母は投稿歌人だった…ペンネームとして、美知を使っていた経緯は明らかになり、私の母がミチ子だったことを思うと…ふたりが、初めて諏訪神社近いお茶の教室で出会ったときの感動が私を襲う。偶然にも名前が同じ…運命だと、ふたりが、感じたのは無理もない。125周年の矢上小学校のあゆみに叔母ミチの名前を私は見つけてしまった。

日記には真相の雪が積もる。

 だらだら、ブログ数だけを積み上げた2023はうちにとっては、奇跡の歳になりました。やっと…父親が望んでいた娘になれた。しかし、父が存命中に出来ればそこを示したかった。67才の私に到達してようやく、本来の自分に対峙しています。今年最も嬉しかったのは、美子ちゃん、そして、恵子ちゃんの二人にレジで遭遇出来たこと。ふたりとも、私に最初は気が付かず、それも、白髪のせいです。会いたかった人が向こうから来てくれたのはレジの仕事が関与です。恵子ちゃんは料理の講師なさってる。美子ちゃんは長らくポーラの仕事にいる方どす。

今週雪かも?な長崎や。

 雪になるとき、意外に売上は上がる。店長やオーナーはきちんとそこを見て発注してる。パンや冷凍食品、まだまだある。スイーツ需要はでかい。みんな、外にはチェ゙ーンなしでは出れんくなるから、家での生活に、乾き麺や、カップ麺の出番は意外なほどある。アサヒゼロサイダー、うちのお薦めはトリプルファイバー1、5リットルや。移動販売車を最近は備蓄するイオンだ。この車は雪の坂を登れるか?誰にもわからない。リスクの方が大きいなら回避やろ。この場合、雪の量が問題や。