デニム・ブルーママン21の17

 

私が学んだ実生の哲学は存在しました。父が満足には、自分の意見も言えず海の藻屑になったように、現実の社会には大きな裂け目が存在すること…しかし、それを見たら、みんなが、神経を尖らせ、日本のことを全く考えてないと、騒ぎ出すことは、私には分かっていました。両親から受けた礼の教育を私等は基本にして戦後を歩みました。一切疑問符がなかった…と言えば虚言になる。ゆえに、代弁者を私が必要としていたのは、理解出来ると思います。私では、上手く表現が出来ない。まさか…私が時代の反逆児を産むなど、その頃は思いません。教え子に憧れる生徒がいました。子供が生まれたら……私は、我が子につけたいほど、理想の生徒でした。

デニム・ブルーママン21の16

 母を亡くしてからの私は、真夜中になると、心底怖い思いに打ちひしがれ泣いてばかりいました。これは、天涯孤独の通常なんだ…そう心して掛かるも、未来を想像すると、伴侶のある勢いは、全然違うかもな…に行き着く…。ミチは、亡くなった父親を大層尊敬していて、同居する母親に全部のお給金を渡していることにも現れているように、未亡人になったお母さんを、ミチ、兄、そして、そのお姉さんが支える構図は見て取れました。お姉さんはひとつ上で小学校教員の出戻りと聞きました。最初は、ふたりで新生活をスタートさせても良い♪とのミチの提案に、私は、好感を抱きました。自宅は39坪の二階建の家だと聞いていました。しかし、そこにこれだけの人が棲むとなると、大変なこと…ため息も漏れて来ます。私は、孤独がどれだけ辛いか身に沁みていただけに、ミチのおにぎり持参の案を快諾したのです。

デニム・ブルーママン21の15

 ミチは何としても、お兄さんを紹介したい気迫に満ち溢れ、私も素敵な方なら、一回くらい会ってもいいな…は心深くにありました。教員を辞めてしまうことは、全く頭にはありません。母が亡くなり兄と姉妹で財産を分け、私はそこまで金銭に逼迫した状況にはなかったことで、お見合いしてもいいな…はありました。普賢山(ふげんさん)祭りは4月24日でした。ミチはおにぎりを兄に持たせたいと息を弾ませるのです。

デニム・ブルーママン21の14

 私はミチに、総勢何人が一家にいるのか?質問しようとして一歩下がりました。これ以上質問しては、いけない。興味を、持つことが、親密に加速を掛けてしまう…と。なんと言っても理想の男性像がありました。私の兄のように、弁論にたけるスマートさは必須なんだと…しかし、私は、一介の教師で、両親もありません。兄や、姉妹もそれぞれ家庭を持ち、自分だけ、蚊帳の外にある現実…それは途方もない独身砂漠の前触れであることが分かっていただけに、戸惑いは尽きないでいたのです。家族何人で同じ屋根の下に棲むか?それを尋ねようとした時です。ミチは涼しい顔で、ふたりっきりで結婚生活をスタート出来るわ!と軽妙に話すのです。今の時代は、家を継ぐという方式は、最初から取る必要ない…って。私も同居は嫌でした。

デニム・ブルーママン21の13

 

私が極度に寂しいを感じたとき、ミチは上手く私の心を、キャッチし、こう言うのです。兄と会ってみたら、きっと、わかるわ…ミチが兄を紹介するにしても、あくまで私は、のち添えであることは察知していました。ミチも、それを正直に打ち明けて説明したのです。兄と性格が合わずにお嫁さんは家を出て行ったのよ…ミチはそれをオブラートもしないまま、私に素直に伝えてきたので許せました。ミチはこう続けました。兄は中学の教師だから、小学校の教師のあなたの、仕事を、理解し、ふたりは、きっと、上手く行く…とそう話して期待で胸を弾ませるのです。私は、ミチのお兄さんなら、ハンサムに違いない…を確信しました。ミチは色が白く、しかも、面長の美人でした。身長も私より高いので、お兄さんなら、なお、高いと想像したのです。

デニム・ブルーママン21の12

 

ファザーコンプレックスだった私の性格がある時、最高の境地を得たのも、父が、直に褒めてくれたときでした。頭を使う仕事であっても、そうでなくとも、気負いは必要はない…と話してくれたのです。父はまず私の学習態度を評価してくれました。大人しく、芯は強い私を、褒めつつ、人と常に比較する人生を歩むことにノーサインを出して来ました。人は、肝心なとき、意外な程、スルーする…。見て見ぬふりだ。しかし、自分の中で培うものは、見劣りがしない…と。それだけを私に伝えたことを覚えています。ミチは、私が父を失う二年前にお父さんを亡くしていました。ミチの父親は、のぼりを作るのが生業だったようです。

デニムブルー・ママン21の11

 

自分の中で理想とする女性像は、思いっきり背伸びをすれば母でした。しかし、それを目指せ…は無理なことは分かっていました。母は母なりに軍国の世を生きて、四人の子供たちを大人にし終えた。それだけで、充分役目は果たしていると、私は解釈しました。そんなに、時代が横転する機会には普通は遭遇はしません。私は15歳で敗戦を体験し、ミチは13歳で三菱の兵器工場で被爆したのです。ミチは、原爆投下と対峙をしながら、防空壕で一命をとりとめ、そのとき、私達は鹿児島に疎開していたのです。日本は少しずつ、良い方向に動きを変えて行くべく、戦争の遺した爪痕と向き合う日々でした。ミチは、私には、肝心なことを言わないまま、普賢山(ふげんさん)祭りに一回来て欲しい、自分の8歳上の兄に会って欲しい…を打ち明けて来るのです。